こんにちは、とことこらいふです。
今回は、私が研究室で感じていることを書いてみました。
最後まで読んでいただけると嬉しいです。
「努力は裏切らない」
あなたは、この言葉を胸を張って信じられますか?
「人生で一度も、努力が報われなかったことはない」と言い切れるでしょうか?
私は、そうは思えません。
この言葉は、あまりにも綺麗すぎる——そんな風に感じています。
そして、この言葉には生存者バイアスがかかっていると
実際のところ、努力はあっさりと裏切る。
そう痛感してきたからです。
努力しても、うまくいかないことばかり
むしろ、現実を見れば見るほど、努力はあっさりと裏切るものだと感じています。
たとえば、
- 一生懸命勉強しても、受験には落ちる
- 毎日実験しても、論文は書けない
- どれだけ練習しても、試合には負ける
そんなこと、いくらでもあります。
みんな、何かしらの努力をしてる。
努力そのものは、特別なことじゃないんです。
だからこそ、もし「努力が報われる」が真実なら、
すべての人が報われているはずですよね?
でも現実には、
必死で努力しているのに、何も得られず、苦しみ続けて、
やがて生きるのが辛くなってしまう人もいる。
中には、自ら命を絶ってしまう人さえいる。
林修先生の言葉と「正しい努力」について
林修先生は、努力についてこう語っています。
「正しい場所で、正しい方向で、十分な量なされた努力は裏切らない」
と努力について述べていました。
——確かに、その通りだと思いました。
けど、正直に言えばこうも思いました。
「じゃあ、今いる場所で成功したい人はどうしたらいいの?」
すべての人が、努力の“場所”や“方向”を自由に選べるわけじゃない。
変えたくても、変えられない事情もある。
例えば、
家庭環境、病気など、自分の意思で変えられない要因がある人も多い
私だって、研究室自体を変えることはできなかった。
そういう人の努力は、やっぱり報われないのでしょうか?
「周囲から見て十分な量」こそが意味を持つ
最近、私はこう考えるようになりました。
「周囲から見て十分な量の努力は裏切らない」
大事なのは、自分の中で「頑張ったつもり」になることではなく、
他人が見ても「あいつ、頑張ってるな」と思われるほどの努力
を積み重ねることなんじゃないかと。
努力って結局、誰かに認められたいからしてるんですよね。
尊厳欲求とか、自己実現欲求とか、心理学的な話を持ち出さなくても、
「頑張ったね」と言われたいし、「すごいね」と思われたい。
だとしたら、
自分で「もう十分」と思うことに意味はないのかもしれません。
「他人から見て、報われるに値する努力だったかどうか」
この視点の方が、ずっと大事なんじゃないでしょうか。
自分に甘いのが人間だ
人間って、自分には甘くなるものです。誰だってそうです。
- ちょっと頑張っただけで「めっちゃ頑張った」と思ってしまう。
-
うまくいかなかったら「環境が悪かったせいだ」と言いたくなる。
でも本当にそうなんでしょうか?
もし「環境が悪い」と思うなら、環境を変える努力をするべきだし、
「方向が違っていた」と思うなら、方向を修正する努力をするべきです。
環境も方向も、放っておいても正しくなることはありません。
そう考えていくと…
それを放っておいて、「努力は裏切った」と感じるのは、結局
“十分な量”の努力が足りていなかっただけなのかもしれません。
じゃあ、十分な量ってなんだよ
その答えは、本人が決めることじゃないんです。
周りが決めること
それは時に、あまりにも悲しい運命に見えるかもしれないけれど。
でもだからこそ——
私たちは一生懸命に歩き続けるしかない。
そうやって、一歩一歩進むしかないんです。私たちは。
最後に
正直に言えば、私自身も「努力が報われない」と感じた瞬間が、何度もあります。
毎日研究に向き合い、必死に取り組んでいるのに結果が出ない。
周囲から評価されず、自信を失い、精神的にも追い詰められて──
ついには心療内科に通うほど、限界を迎えていました。
でも今、ほんの少し立ち止まって振り返ってみると、気づくことがあります。
あのときの私は、
「ここは自分にとって正しい場所じゃない」と決めつけていた。
「誰もわかってくれない」と、心のどこかで環境や人のせいにしていた。
本当は、もう少し踏ん張れたのかもしれない。
けどそれでも、歩みを止めなかったからこそ、
今こうして言葉にできています。
これは、誰かに向けた言葉であると同時に、
自分自身に言い聞かせている言葉でもあります。
どうか、あなたの努力が、
いつか誰かの目に「十分な量だった」と映りますように。
とことこらいふ
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